日差しが強く、焼けるアスファルト。陽炎がゆらゆらと揺らめいている。
俺は音を上げて、喫茶店のドアを開ける。すると、いつものチリンと涼しげな音が、「お疲れ様」と俺を出迎えてくれる。
いつもの俺なら、荷物も置けるようにテーブル席に行くのだが、今日は久しぶりになぜかカウンター席に座りたくなった。
席につくと、夏場の定番を頼む。
「紗耶香ちゃん、レイコ頂戴」
「遠藤さん……レイコって昭和の時代のアイスコーヒーの言い方じゃないですか。今はもう令和ですよ?」
このお店のマスターである、香園紗耶香ちゃんは、そう言うと苦笑いをしている。
今時の若い子とのジェネレーションギャップを感じるが、営業をやっている俺には、これも話題の一つ。だがまあ、この仕事もそろそろ定年退職を迎えるのだが……。
すると、いつの間にかアロマオイルの香りが漂ってきた。
このお店、『芳香喫茶』に初めて入った時のことを思い出す。
あの時は、仕事は忙しかったし、妻とも距離ができ、離婚してしまった時期。その際に、ふらりと寄ったこのお店。今と同じようにカウンター席に座った。
俺はアイスコーヒーを淹れている紗耶香ちゃんの背中に、声をかける。
「紗耶香ちゃん、前にカウンター席に座った時は、確かスイートマ……なんとかってやつだったよね? 今日のは違うやつ?」
「それはスイートマージョラムですね。今日のやつはネロリですよ」
会話をしながら、俺は過去のことを思い出す。その際に「心拍数や血圧上昇を軽減するんですよ」と言われて、女性に流行りそうなおまじないみたいなものか? 「へ~」と感心したものだ。そんな所でも職業病と言うべきか、取引相手のお客さんとの話題を探していた。
その当時、営業成績が伸び始め、日々、あくせくしていた。
『営業成績をもっと上げて、妻を幸せにしてあげたい』
そんな思いとは裏腹に、俺の行動は逆に妻とすれ違い、離婚するということになってしまったのだが……。
「どうぞ。今日はいつもに増して暑いですね」
ストローを口にして、一口啜る。冷たい苦みが喉をキーンと刺激する。
「いやいや、本当に暑いよね。まあ、この暑さの中、営業に回るのはあと少しだけど……」
「あと少しで定年退職でしたよね。今までご苦労様でした。これからはセカンドライフを楽しんで下さい」
紗耶香ちゃんはそう言うと、ぺこりとお辞儀をしてくれた。
その台詞を元妻から聞きたかったので、思わず愚痴をこぼしてしまう。
「そのセカンドライフが怖く感じるんだよね。俺は今まで仕事をがむしゃらにしてきた。だが、趣味と言えるものはない。子供に恵まれなかった上に、妻だけは幸せにしようと頑張ったのだが、その頑張りが逆に家庭を壊してしまった……」
そう言うと、感傷に浸るように、ストローでグラスの中の氷とアイスコーヒーを、カラカラと掻き混ぜる。
それを聞いた紗耶香ちゃんは、優しく微笑みかける。
「それでしたら、奥さんと話し合って、友達からやり直してみたらいかがですか? 今までお仕事を頑張ってきた分、二人であちこちへ出かけてみたりしたり。そしたら、新しい何かが見つかるかもしれませんよ?」
そんな会話をしていたら、いつの間にか柑橘系の香りが漂っていた。
俺は、先ほど名前だけを聞いたネロリの効果を聞いてみる。
「えっと……今日のネロリ……だっけ? 効果は?」
「『意欲がわかない時』や『自信が持てない時』とかにいいんですよ」
その言葉に、紗耶香ちゃんの心眼とでもいうのだろうか。それをすごく感じる。
お客が必要としている香りを、的確に提供できる。
いや……こんな分析までして、とことん仕事が染みつきすぎているのかもな。そんな俺に妻は嫌気がさしたのであろう。
内心まで見透かしたように、紗耶香ちゃんは言葉を付け加える。
「遠藤さんは、今まで仕事の為に話題を探していたりしたじゃないですか。今度は奥さんとの為の話題を探してみたらいかがですか?」
そう言われて、自分の心を見つめてみる。今でも妻を愛している。やり直せるものならやり直したい。
「……ちょっと妻と話し合ってみるよ。なんか少し自信が持てた気がするよ。これもネロリのおまじないのおかげかな?」
「ふふふ。おまじないじゃないですよ。それだけ遠藤さんが奥さんのことを愛しているということですよ」
「奥さんのことを愛している」とストレートに言われ、気恥ずかしさで頬が熱くなる。その熱を冷やすように、アイスコーヒーを啜った。苦みが気恥ずかしさを消し、決意だけが心に残った。
***
数日後、とうとう定年退職の日を迎えた。
会社では、「お疲れさまでした」という声と一緒に、大きな花束を渡された。
「今までお世話になりました」
そう挨拶をして回り、俺の会社での居場所はなくなった。
家に帰り着替えて、コンビニ弁当を食べ終わると、早速、妻に連絡を取ろうとスマホを手に取る。
今時のSNSなどは、俺も妻も使いこなせない。手段は電話しかない。メールという手もあるが、それだと自分の心を籠める自信がなかった。
手汗と共にスマホを握りしめ、『芳香喫茶』でのネロリの香りを思い出す。
『自信が持てない時』
そんな言葉を思い出し、スマホをテーブルの上に投げ出す。そして、布団に横になり天井を見つめながら思考する。
(明日にでも、ネロリのアロマオイルでも買ってみるか……)
翌日。
そうそうにショッピングモールへと向かった。
アロマオイルというものが、どういう所で売っているのかを、俺は知らない。
こういう大型店なら扱っているだろうという、今まで営業の仕事をしていた勘である。
いや……仕事として考えなくても、家庭を大事にしていれば、妻との話題として取り上げられる機会があったかもしれない。
そんな自分に嫌悪しながら、モール内の案内所へと足を進める。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「はい。どういったご用件でしょうか?」
案内所には、ありがたいことに女性店員がいる。女性ならアロマオイルのこととか、詳しいかもしれない。まあ、偏見かもな。
「アロマオイルでしたら、ドラッグストアで扱っております」
「どうも」
お礼を言ってお辞儀をする。そして、慣れないドラッグストアへと足を運ぶ。
買い物は大抵、妻がしてくれていた。俺が利用していたのは、コンビニ程度のみ。
体調を崩したときとかは、病院へ行き、その帰りに調剤薬局へは寄っていた。
俺の中では、調剤薬局とドラッグストアは別物。初めての領域へと足を踏み入れた。
ショッピングモール内のせいか、広々としていて、多種多様なものを扱っている。
アロマオイルを探して見るものの、なかなか見つからない。
きつい香りのする方に行ってみる。すると化粧品が並んでいた。
場違いに感じた俺は、足早に他に移動する。見つからないので、店員に聞いてみた。
「こちらに置いてあります」
店員さんが場所を案内してくれたが、化粧品売り場の近くであった。
店員さんにお礼を言うと、仕事に戻って行った。
俺はその背中を見送ってから、アロマオイルに目をやる。
「こんな小瓶に入っているのか……しかも小瓶なのに高いんだな!?」
だが、今の自分には『ネロリ』のおまじないが必要だ。
とりあえず、使用量がわからないので、多めに買っておこうと、10mlのものと、電球で加熱するタイプらしいアロマポットを買って、自宅に戻った。
自宅でアロマを焚いてみる。
もう年のせいか、箱に書いてある説明が読みづらい。老眼鏡をかけてなんとか使い方を覚える。
アロマポットにスイッチを入れる。そして、そこにネロリのオイルを数滴垂らす。だが、『芳香喫茶』のように香りが漂ってくる気配がない。
(使い方を間違えたか?)
そう思い、説明を読み返していると、『芳香喫茶』で嗅いだのと同じ香りの『ネロリ』が鼻まで届いてきた。
(スイッチを入れてから、少し時間がかかるのか……)
しばらくすると、部屋中にネロリの柑橘系な香りが広がった。
それを深呼吸して、鼻から肺一杯に吸い込む。
決意が固まると、スマホに手をかけて、元妻に電話をかけた。
数コール待たされる。
何か用事中だろうか? まさか他に男ができたのだろうか?
そんな不安を抱えていると、発信音が切れて「もしもし」という返事が聞こえてきた。
妻の声に安堵し、尚且つ、久しぶりの愛しき人の声が聞こえたことに、感極まり、目頭が熱くなってきた。それをぐっとこらえて、願望……いや、『これからの将来の夢』を口にする。
「えっと……その……まだ、お前のことを愛しているんだ」
自分でも驚くほどに、ストレートな言い方になってしまった。これが『他の男に取られてしまうのではないか』という焦りなのか、『ネロリによる自信』なのか分からないが。
「……」
元妻は、反応がない。慌てて言葉を付け足す。
「友達からやり直せないか?」
「まあ、友達ということなら……」
一歩を踏み出せた俺は、そのまま会話を続けた。
気づいたときは、結構時間が経っていた。
***
数か月が経った頃。
仕事を辞めて以来に『芳香喫茶』へと顔を出した。
いつも聞いていたチャイムが、チリンと音を立てて挨拶をしてくる。
俺と連れはテーブル席に向かい、連れが座る椅子を引いてあげて椅子に座らせてから、自分も向かいの席についた。
「ご注文は?」
紗耶香ちゃんが注文を取りに来た。いや、愛する人の前で他の女性に対し「紗耶香ちゃん」という言い方を考えるのは、脳内であろうと失礼であろう。ここはあえて「香園さん」と変換しておく。
「俺はホットコーヒーで」
「私はミルクティーをお願いします」
注文を終えると、香園さんは「かしこまりました」と言い、カウンター内へと戻って行く。
その間、テーブルに視線を移すと、一輪挿し用の花瓶に、白い花を咲かせた枝が差してある。
今まで来店したとき、テーブル席に座っていたが、花瓶は飾っていた記憶はない。飾るようにしたのかとだけ考え、向かいの元妻、今は恋人となった女性と会話をする。
しばらくすろと飲み物がきた。
恋人との話題がてらに、花瓶の花のことを聞いてみた。
「この花、何の花?」
「ああ、ネロリの花ですよ」
香園さんの心眼には驚かされる。
俺は辺りのテーブルを見回すが、他のテーブルにはネロリの花は飾られていない。
そんな俺の驚くような顔に満足した様子で「ふふふ、ごゆっくり」とだけ言い残して去っていった。
俺は気を取り直して、コホンと咳払いをする。
そして、恋人と「この後、どこに行こうか?」という会話をした。
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