「そろそろ、県大会に出場する選手を決める! 全員、気合入れて練習に励むように!」
「「「はい!」」」
威勢よく返事をしたものの、俺は不安がよぎる。とうとう俺が所属している陸上部で、県大会に出場する選手を決めることになった。
よりにもよって、今はスランプでタイムは伸びるどころか、遅くなってしまっているというのに……。
どうしたらいいのかと、部活帰りに俯きながら歩いていると、暗い地面に灯りが伸びてきている。その灯りの元を、視線で辿る。そこにはお店があった。
俺は看板に書いてある店名を読み上げる。
「芳香喫茶?」
たとえは悪いが、灯りに群がる蛾のように、俺の足はそのお店に吸い込まれた。
ドアを開け、店内を見回す。木造りのレトロな喫茶店という感じである。
その中で、普通の喫茶店とは違うものが目についた。
それは『ガラスで仕切られた仕切り』である。
不思議には感じたが、気にせずカウンター席に座る。座ってから気づいたが、なんで俺はカウンター席に座ったのだろう? 普段、友達や陸上部の仲間とファーストフードなどでは、テーブル席でだべっている。なので、慣れないカウンター席に座った自分を不思議に思った。
「いらっしゃいませ」
女性の美声と、水の入ったコップがコトリと置かれる音で、我に返った。
そこには若い女性店員がいる。思春期男子ゆえとでも言おうか。自然と胸元に目がいってしまった。
そこでネームプレートが目についた。
「……香園さん……?」
口にしてから「しまった!」と思ったが、今更、口に出してしまったことは訂正のしようがない。
内心で焦っていると、優しく声で返事が返ってきた。
「ええ、香園紗耶香といいます。この喫茶店のマスターをしています」
俺は水の入ったコップを手に取り、水と一緒に冷や汗を喉の奥へと流し込んだ。
「ご注文は何にしますか?」
そう聞かれて、手元のメニューに手を伸ばそうとするが、手元にはメニューがない。
カウンター内の壁に目をやるも、メニューらしきものは見当たらない。
焦りつつ目を泳がせていると、紗耶香さんがお薦めしてきた。
「カモミールティーとかどうですか?」
「えっと、じゃあそれで」
「かしこまりました」
返事をしてから、紗耶香さんはカモミールティーの準備を始めた。
正直な話、カモミールティーなんておしゃれなものは飲んだことがない。大抵、ファーストフードや安いファミレスとかでは、ジュースを飲んでいる。
しばらくすると、ジンジャーとレモンを合わせたような、不思議な香りが鼻についた。
アロマであろうか? 普段、通学の満員電車などで、女性の香水の匂いとかがきつい! とか思うことがあるが、この匂いは嫌ではない。
身体がこの香りをもっと欲しがっているような感じがして、俺は鼻をひくひくさせた。
「お待たせしました」
その声で我に返り、「はい!」と思わず背筋を伸ばしてしまう。
部活で顧問の先生や、先輩たちに対する態度が、思わず反射的に出てしまった。
俺の前に、ティーカップがカチャリと置かれる。カップの中の液体は、明るい黄金色をしている。
その液体に気品を感じ、俺は慣れない手つきで、上品に飲もうと試みる。その際、視線が紗耶香さんとぶつかった。紗耶香さんは、にこにことしている。俺は懸命に大人ぶってカップに口をつけた。
「……美味い……」
「それは良かったです。カモミールティーにはリラックス作用があるんですよ」
それを聞きながら、カモミールティーの表面に映る景色に目をやる。
反射で表面に紗耶香さんが映っている。その紗耶香さんと視線が合ったような気がして、照れてしまいつつも、先ほどのアロマの香りが気になり、質問をしてみる。
「あ、あの……このアロマの香りってなんですか?」
紗耶香さんは更に眩い笑顔で、俺の質問に答えてくれた。
「ああ、それはレモングラスですよ。レモングラスは、『関節の動き』をよくしたり、『集中力』を高める効果があるんですよ」
「へ~」
感心して、気の抜けた返事になってしまった。だが数秒後。『関節の動き』をよくするという言葉に反応し、すぐに思いつく。
(しばらくこのお店に通えば、スランプから脱出できるか?)
そう考えた俺は、話を聞き逃さないように、身体を前のめりにして、更に質問してみる。
「これって運動能力が上がったりしますか?」
紗耶香さんは、きょとんとした顔から、笑顔になり答える。
「いや~、アロマって医療行為ではないですからね」
「え? そうなんですか? でも、『関節の動き』をよくしたり、『集中力』を高めるんですよね?」
苦笑いをしつつ、説明を補足してくれる。
「昔の人たちは薬草として使っていたみたいですね。それに香りとは神経に作用すると言われていますが、効果は人それぞれですね。だから『必ず効きます』とは保証できませんね。なので『関節の動き』や『集中力』が高まりますか? というと、イエスともノーとも私には答えられませんけどね」
紗耶香さんはそう答えると、申し訳なさそうな表情をしている。
(まあ、ダメで元々と言うことで、試してみるのもいいか。他に改善案も浮かばないし……)
もう一口カップを啜り、俺はしばらく『芳香喫茶』に通うことを決意した。
***
芳香喫茶に通ってから数日後の部活中。
俺は背中を何者かに叩かれた。その衝撃にびくりとし、何事かと勢いよく後ろを振り向く。そこには同級生の高橋が、笑顔で立っていた。
「最近、スランプ脱出しつつあるんじゃない? 落ち込んでいたタイムが、じわじわと伸びて来てるじゃん」
俺は得意気にドヤ顔をする。
「へへ、まあな」
「なになに? なんかいい方法あるの? 教えて!」
子犬がじゃれてくるように、高橋がまとわりついてくる。
「いや、教えね~し! お前とは選手枠を奪い合うライバルじゃん!」
「え~、友達に対して冷たい!」
まあ、友達ではあるが、それとこれとは話が別だ。それに紗耶香さんをこいつに紹介したくはない。
そこでふと自分に気づく。
(俺はキモイやつか。なんで紗耶香さんを意識しているんだ)
頭をぶんぶん振りながら、雑念を払いのけようとする。
だが、アロマオイルの香りに包まれた紗耶香さんが、頭に浮かんでしまう。
顔が熱くなってきた。俺は高橋を置いてつかつかと水道に向かい、顔に水をぶっかけた。
***
さらに数日後。
俺は軽い足取りで『芳香喫茶』のドアを開ける。そして、いつものカウンター席へと座った。
「紗耶香さん! 俺、スランプを脱出できて、県大会の選手として出場できるようになったんだ!」
そう言ってから、俺は自分が浮かれ過ぎていたことに気づく。普段、脳内で「紗耶香さん」と呼んでしまっていたので、その言い方がつい、口からこぼれ出てしまった。
紗耶香さんに引かれてないかと表情を窺うが、紗耶香さんは笑顔で手を小さく、パチパチと拍手してくれた。ほっとしながら、いつものカモミールティーを頼んだ。
しばらくするとカモミールティーのカップが置かれ、紗耶香さんが一言付け加える。
「じゃあ、これは私からのお祝いの奢りということで」
そう言うと、紗耶香さんはパチリとウインクをする。その可愛い仕草に、脈があるのではないかと誤解しそうになるが、「これも接客のうちだろう」と思い、カモミールティーと一緒に喉奥へと流し込んだ。
身体の中に流れ込んでくるカモミールティーの温かさで、ほっとする。いや、これは選手として選ばれた安心感かもしれない。
そして、俺は紗耶香さんに「ごちそうさま」とお礼を言い、お店を出ようとしたとき、背後から「頑張ってね」と紗耶香さんの声が聞こえた。
俺は振り返り、「はい! 一位を勝ち取ってきます!」と約束をして、『芳香喫茶』のドアを開けた。そのドアが、輝かしい未来への道に見えた。
県大会の当日。
マイクロバスで会場へと向かっている。俺は厳しい顔つきで、窓の外を見ていた。すると、途中で『芳香喫茶』が目につく。
(県大会で一位になったら、紗耶香さんが俺のことを少しでも魅力的に感じてくれるだろうか)
紗耶香さんの笑顔を思い出し、緊張しすぎていた肩の力を少し抜いた。